【お知らせ】サイトリニューアルについて

平素はお世話になっております。

今年末に控えたパテベビー映写機の百周年記念を前に、当サイトでも9.5ミリフィルムや映写機のデータを拡充していきます。それに併せて今春(2022年4~5月)にサイトのリニューアルを行う予定です。

レイアウトやデザイン面にとどまらず、サイトの設計自体が大きく変わります。

一部記事については大幅な改変が見込まれ、リニューアル後に閲覧できなくなるコンテンツや表示不可となるページも出てきます。利用者の皆様にはご不便をおかけいたしますがご了承くださいませ。

令和4年3月吉日

] 映画の郷 [

1930年代 仏パテ社モトカメラ用ワイドコンバーター&フード (日本製・ダイヤ印)

Late 1930s Japanese « Daiya » Wide Angle Attachment for Pathé Motocamera

以前に紹介したターレット式のフィルター付きモトカメラに付属していたワイドコンバーター。仏パテ社が発売していたモトカメラ用「アンプリ・パテ(Ampli-Pathé G2)」の日本版コピー商品。

元箱に「九ミリ半用/ダイヤ望遠レンズ/TYPE AH」の文字あり。遮光フードがセットになっています。

1938年(昭和13年)の「パテータイムズ」に広告を発見しました。国産のアルマ撮影機に対応した「ダイヤ印 アルマ望遠レンズ」で、左下に

「モートカメラA型3.5用 十五圓
モートカメラA型2.7用・H型モートカメラ兼用 十五圓
モートカメラF1.5用 十七圓
同用 ケース 二圓五十銭」

とあり、2行目の「モートカメラA型2.7用・H型モートカメラ兼用」が「AH」に対応。

日銀の資料によると1938年の企業物価指数(1.327)が2021年には735.5になっています。約554倍なので「十五圓」は2021年の8300円程度に相当する感じでしょうか。ちなみにH型モートカメラの市販価格が当時135円で、これは2021年の7万5千円弱に相当します。

1920年代後半 仏パテ社モトカメラ用 ポートレート・レンズ・アタッチメントセット

Late 1920s Portrait Lens & Filter Attachment Set For Pathé Baby Camera

Mid-Late 1920s Pathé Portrait Lens Attachment Set for Pathé Baby Camera and Motorix

初代のパテベビー撮影機とその発展形モトリクスに対応した接写用のレンズ&フィルターアタッチメントセット。

最初期のパテベビー撮影機はレンズが単焦点でした。「ピントをあわせる」という発想がなく、普通に撮影すると狙っていた対象に上手く焦点があっていなかったりします。

「森の精」(1920年代中盤)背景の木々に ピントがあってしまっている例

接写も苦手。パテ社は補正用のレンズを用意しました。25センチ、50センチ、1メートル、1.5メートル、2メートル用のポートレート・レンズと、コントラスト調整用のシャープカットフィルター(黄色)の6つをセットにしたのがこちら。

手持ちのモトカメラで装着してみたサンプル。

被写体との距離にあわせてその都度取り替えなくてはいけないものの、9.5ミリの撮影でクローズアップ~ミドルショットを行いたいというユーザーの希望を叶えたアイテムです。

1930年代 「ベビー・アイリス」(日本製・無銘)

1930s « Baby Iris » for Pathé Motocamera « De Luxe »

撮影中に絞りを開いたり閉じたりする「アイリス・ショット」用の専用フェイダー。パテ社でも同種のアクセサリーが発売されていて、こちらは日本製ノーブランドのコピー版。

パテ社のモトカメラ発売は1927年までさかのぼるのですが、1930年代の改良形「De Luxe(ドゥ・リュクス、日本語のデラックス)」では本体側面に四角いスロットが設置されるようになりました。そこに「ベビー・アイリス」の支柱部を差しこむとフェイダーがレンズ前を覆う形になります。脇に突き出したバーを上下させると絞りがあわせて変化する仕組みです。

1950年代中盤 仏パテ社 ウェボ A型 リュクス 9.5ミリ動画カメラ

Mid 1950s Pathé Webo A « Luxe » 9.5mm Movie Camera

仏パテ社が1940年代に発売していた9.5ミリ撮影機ウェボA型の後継機で1954年から58年に製造されていたもの。

先行のA型に比べるとやや丸みを帯びたデザインに変更されています。基本スペックに変更はなく15m用フィルムカートリッジに対応、レンズはベルティオ社のf=1.9(または2.5、3.5)20mmを標準装備。

1940~50年代のウェボA型は現在の中古市場ではあまり人気のないモデルです。レンズを本体に装着する部分(マウント)の形状が独自規格のため、現在ミラーレスなどに転用しようとしても手間がかかるのです。当時のパテ社もマウントの互換性に問題のある点は認識していたようで、次世代のウェボ・リオ映写機からはCマウントを採用するようになりました。

フランスのエルクサム社が発売していたカメックスも同様でオークションサイトでも買い手がつかずにグルグル回り続けています。

見方を変えると狙い目でもあります。この10年程で古い9.5ミリ動画カメラは相場が数倍に跳ね上がっていて、アンジェニューやベルティオなどの高級レンズ付きの機体は入手しにくくなっています。自力でマウント部分に対応できる技術があるのならあえて高値の個体を掴まずウェボA型やカメックスを入手した方が遙かに安くつくのかな、と。

1930年頃 – 『趣味の理科 渚』(東京シネマ商会、撮影・川谷庄平) 伴野商店9.5ミリプリント

「伴野商店」より

Nagisa (« Science On The Shore », c1932, Tokio Cinema Co.) c1932 Banno Co. 9.5mm Print

夏休みの日記を書いている小学生の女の子。今日連れていってもらった磯で、姉に沢山の生き物について教えてもらった。水に咲いている花は「いそぎんちゃく」という名前だった。とげとげのある黒いのは「うに」、ふじつぼにかめのて、じんがさ、くらげ…日記を読んだ姉が「たいそう良くできました」と誉めてくれる。明日は山に連れていってくれるそうだ。

1930年代初頭、伴野商店が「倍缶」と呼ばれる40~50メートル規格のフィルムを発売し始めました。ダブルの頭文字をとり「D」の型番が振られたもので、第一弾(D-1)に発売されたのが教育短編映画『渚』でした。

1910年代半ばから実写(ドキュメンタリー)分野で定評のあった東京シネマ商会の製作。撮影担当は日活・松之助作品で活躍した川谷庄平氏(川谷拓三氏の父親)で、編集には東亞キネマで監督経験もある山根幹人氏の名がクレジットされています。

◇◇◇

東京シネマ商会(※戦後1954年に設立された株式会社東京シネマ/現・東京シネマ新社とは別会社)は1914年(大正3年)に設立された映画会社。会主は芹川政一氏。設立当初より時事実写と連鎖劇撮影を得意としていました。教育用フィルムを多く含んだ伴野9.5ミリ作品とも縁が深く『動物の国』『大東京』などが東京シネマ商会によるものでした。

1910年代中盤にはキネマ・レコード誌に広告を出していて、映画会社の近況欄に時々名前が出てきます。連鎖劇を多く撮影、「目下常盤座、金龍館等にて映寫されつゝある」の興味深い情報も含まれていました。折角ですのでキネマ・レコード誌の広告などをまとめておきます。

JMDbに『渚』は未登録。文化庁の日本映画情報システムが東京シネマ商会関連に詳しく1914年から38年にかけて製作された127作が登録されていました。『渚』は製作年未詳とされていますが、伴野のD番が運用され始めた1931年後半から32年始め頃に制作された一作です。

ABColor ネームランド 互換テープカートリッジ カシオ XR-9WE 9mm 白地・黒文字 2本セット 互換スタンダードテープ (XR‐9WE 白地黒文字)

Das Mädchen ohne Vaterland (1913, Deutsche Bioscop GmbH, dir/Urban Gad) 1958 Japanese Postcard

『國なき人』此の畫程私の心に深く刻まれたものはありません。ビオスコップの藝術的な映畫とは實に此の樣なジプシーの乙女の戀を描いた中に深刻な心氣が漂ふてゐるからです、『國なき人』の —舞つたあの姿はそゞろ私の頭に浮んで來ます。

キネマ・レコード誌 1915年3月10日第21号

とあるバルカン諸国、国境近い山腹を守る一つの基地があった。この基地に所属しているイパノフ中尉はある日、流浪の民の輪で踊る女性ジドラ(アスタ・ニールセン)を見て恋に落ちる。満更でもないジドラだったが、そこに敵国の諜報員が近づいてくる。

基地内部の図面を手に入れたら大金が手に入る…諜報員の言葉に踊らされ、ジドラはイパノフの好意を利用して基地に潜りこみ、図面の奪取に成功する。何が起こったのか察したイパノフ、ジドラに「祖国」の意味を教えると女は理解したようであった。最後の恩情としてイパノフはジドラを逃がし、自らは死を覚悟し軍事会議へと向かうのであった…

墺キネマトグラフィッシェ・ルントシャウ誌
1912年11月10日付第224号掲載の広告

独キネマトグラフ誌
1912年12月11日付第311号の広告

1912年に公開されたドイツ映画『国なき人』。1910年の『深淵』で国際的な知名度を得たアスタ・ニールセンの初期作の一つ。『深淵』の艶めかしい踊りが評判を呼んだこともあって『国なき人』でも作品の冒頭と途中にダンスの場面が含まれています。キネマ・レコード誌の「舞つたあの姿はそゞろ私の頭に浮んで來ます」から、当時の日本でもインパクトを持って受け止められていた様子が伝わってきます。

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【仕様・セット内容】:型番:XR‐9WE 互換テープカートリッジ ラベルの色:白地黒文字 ラベルの幅:9mm ラベルの長さ:8m セット内容:XR‐9WE 2本セット

【対応機種】:EL-700、EL-5000W、KL-G1、KL-G2、KL-H5、KL-H7、KL-H10BU、KL-H10GN、KL-H20、KL-H20BGS、KL-H25、KL-H30、KL-H35、KL-H50、KL-H50、KL-H75、KL-H75、KL-HD1、KL-M5、KL-M6、KL-M7、KL-M7、KL-M20、KL-M30、KL-M40、KL-M50、KL-P7A、KL-P7B、KL-P8、KL-P10、KL-P20、KL-P30、KL-P40、KL-S10、KL-S20、KL-S30、KL-SA10、KL-T50、KL-T70、KL-T100、KL-V400、KL-V450、KL-V460、KL-560、KL-570、KL-8500、KL-9000、KL-A40、KL-A45、KL-A50E、KL-A70、KL-A300C、KL-C100、KL-E11、KL-E20、KL-E20、KL-E20、KL-E550、KL-F10、KL-F10、KLD-200、KLD-300、KLD-350、KLD-700など。(9mm幅のテープに対応したネームランド本体)

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『国なき人』は比較的早くにデジタル化されていて現在でもユーロピアン・ゲートウェイでオンライン閲覧可能。このバージョンは不完全で冒頭と結末それぞれに欠落があります。それでも内容を理解するには十分で、人情の機微を大事にしつつスパイ物としての緊張感をうまく取りこんだ構成および編集にガーズ監督の進歩を見ることができます。

[原題]
Das Mädchen ohne Vaterland

[公開]
1912年11月22日

[IMDb]
Das Mädchen ohne Vaterland

[Movie Walker]

『大地』 ピンバッジ  (1930年、アレクサンドル・ドブジェンコ監督、全ウクライナ寫眞映畫部)

帝政ロシア/ソヴィエト初期映画史再訪 [11]

Zemlya (« Earth », 1930, VUFKU, Alexander Dovzhenko)
Postwar USSR Pin

所謂少數民族も自身の映畫單位を有つてゐた。その中で最も優れてゐたのは、恐らく、一九二一年に組織されたウクライナ・キネマ(ヴフク)であらう。「タラス・シエフチエンコ」と「二日間」を製作したのはこの單位である。

『ソヴエートロシアの芸術』
ジヨセフ・フリーマン 等著[他](1937年、白揚社)

これまでのソヴエト映畫には畫面の繪畫的構成に對し、たいした注意が拂われていなかつた。きたならしい畫面を平氣で撮影してプロレタリア映畫藝術家をもつて自任しているような監督さえもあつた。ソヴエト映畫はドブジエンコにおいて、はじめて美しさを與えられたということができる。「アルセナール」の中の遺骸を乗せて走る軍馬の場面、「大地」の畫面の靜物的美しさ、トーキー「イヴァン」におけるドネーブルの風景は、繪畫藝術作品としてもまさに最高のものといわれている。

『ソヴエト映画』
馬上義太郎(1947年、 京王書房)

ロシア語で「大地・1930年(Земля・1930г.)」の文字が刻まれたピンバッジ。アレクサンドル・ドヴジェンコ監督による1930年の同名作をモチーフにしています。裏面に価格を表す10コペイカ「10коп(ейка)」とメーカーのロゴと思われる刻印がありました。

眞の意味のサヴェート映畫はアメリカのトーキイと前後して生れたのである。エイゼンシュタインの「ストライキ」は一九二四年、「戰闘艦ポテムキン」は一九二五年、プドフキンの「母」は一九二六年の製作であつて、これより以前にサヴェート映畫の代表的なものは一つもな [い]。

『サヴェート映畫の輪廓』
根岸耕一(1931年、文藝春秋社出版部)

『大地』は全ウクライナ寫眞映畫部(通称「ヴフク/VUFKU」)製作による作品です。

ペレスチアーニ監督らを擁したグルジア国営活動会社と並び、全ウクライナ寫眞映畫部はモスクワでの映画製作が本格化する前の1921~23年頃から既に優れた作品を作り始めていました。『アエリータ』の公開、そしてエイゼンシュテインの本格始動である1924~25年辺りをソ連映画の「元年」とする映画史観が必ずしも真ではないだろう、と。共産党視点を一旦外してみると小さな国々(ジョージア、ウクライナ、アルメニア、アゼルバイジャン、チュヴァシ…)がソヴィエト連邦の初期映画史を豊かにしていた風景が見えるようになってきます。

[原題]
Земля

[公開]
1930年4月8日

[IMDb]
Zemlya

[Movie Walker]
大地

アンブロシー・ブーチマ (Amvrosy Buchma / Амвросий Максимилианович Бучма、1891-1957) 烏

帝政ロシア/ソヴィエト初期映画史再訪 [12]

Amvrosy Buchma 1928 Russian Postcard

1891年オーストリア・ハンガリー帝国のレンベルク(現ウクライナ・リヴィウ)に鉄道労働者の息子として生まれる。1905年地元の劇場で初舞台、第一次大戦終戦後から俳優活動を本格化させ20年代にキエフを中心に知名度を上げていきます。

同時期に映画界に参入。ウクライナ詩人の半生を描いた『タラス・シェフチェンコ』(1926年、ピョートル・シャルディニン監督)、米作家アプトン・シンクレア原作物『義人ジミー』(1928年、ゲオルギー・タシン監督)で主演を務めました。

『兵器庫(アーセナル)』(1929年、アレクサンドル・ドヴジェンコ監督)

元々ウクライナ出身で全ウクライナ寫眞映畫部(VUFKU)との繋がりの深い役者さんでもあります。同撮影所の中心人物であったドブジェンコ監督作に多く出演、1929年『兵器庫(アーセナル)』で演じた笑気ガスを受け笑い続ける歯抜けドイツ兵の役が良く知られています。

『夜馭者』(1929年、ゲオルギー・タシン監督)

『イワン雷帝』(1946年、セルゲイ・エイゼンシュテイン監督)

VUFKU以外の作品ではエイゼンシュテインの『イワン雷帝』(1946年)に腹心の一人である親衛隊員アレクセイとして登場。

戦後は役者の活動と並行しながら後進の育成に当たり、VUFKUの発展解消形であるドヴジェンコ・フィルム・スタジオでアートディレクターとして活躍しました。

[IMDb]
Amvrosi Buchma

[Movie Walker]


[出身地]
オーストリア・ハンガリー帝国 (レンベルク、現ウクライナ・リヴィウ)

[生年月日]
3月14日

[データ]
14.8 × 10.5 cm, KINOPECHAT Serie 5 – #A-4711 – Tea-kino-pechat – total print 25000 – Moscow, 1928 (КИНОПЕЧАТЬ Серия 5 – #А-4711 – Чай-кино-печать – общий тираж 25000 – Москва 1928 г. )

ベラ・ベレツカヤ (Bella Beletskaya / Белла Георгиевна Белецкая, 1903 – 1960?)烏

帝政ロシア/ソヴィエト初期映画史再訪 [13]

Bella Beletskaya 1927 Russian Postcard

1903年ウクライナのキーウ(キエフ)に生まれる。1920年頃からオデッサの劇場で舞台女優の下積みを重ねていく。

『公爵令嬢メリー』(1927年、ウラジミール・バルスキ―監督)

1920年代の中盤、グルジア国営活動会社に招聘されウラジミール・バルスキ―監督によるレールモントフ三部作(『公爵令嬢メリー』『ベラ』『マクシム・マクシームィチ』)に出演、主人公である「現代の英雄」ペチョーリンと古くから付きあいのある妖婦ベラを演じています。

『アゼルバイジャンの女(セヴィル)』(1929年、アモ=ベク・ナザリアン監督)

1929年にアモ=ベク・ナザリアン監督がアゼルバイジャンで撮った『アゼルバイジャンの女(セヴィル)』に出演。同作でヒロインの恋敵となる悪女を演じたのを最後に映画からは離れ、1930年代以降は舞台女優に専念。ジョージアのトビリシを拠点に戦後に至るまで息の長い活動を続けました。

一癖ある艶やかな悪女を演じきる映画女優は当時のソヴィエトでも珍しく、出演作数の少なさ(6作)にも関わらず印象に残る実力派でした。

[IMDb]
Bella Beletskaya

[Movie Walker]


[出身地]
ウクライナ(キーウ)

[生年月日]
3月2日

[データ]
14.9 × 10.5 cm, KINOPECHAT Serie 4 – #A-2400 – Tea-kino-pechat – total print 25000 – Moscow, 1927 (КИНОПЕЧАТЬ Серия 4 – #А-2400 – Чай-кино-печать – общий тираж 25000 – Москва 1927 г. )

1920年代末 – 9.5mm 『夕やけ小やけ』 (日本童謡表情会) 伴野商店9.5ミリプリント

「伴野商店」より

Yuyake Koyake (The Sunset Glow) Late 1920s Banno Co. 9.5mm Print

夕やけ小焼やけで
日が暮れる
山のお寺の鐘がなる
お手々つないで
皆かへろ烏も
一しよにかえへりませう

皆な帰つた
あとからは
まるい大きなお月様
小鳥が夢を
見るころは
空にはピカピカ銀の星

昭和3~4年(1928~29年)にかけ日本でも踊りや舞を収めた9.5ミリフィルムが市販され始めました。

伴野商店のリストでは作品番号50番に「踊り」と分類された『江差追分』が登場。少し置いて66番から「舞踊」に区分される3本(『夕やけ小やけ』『かなりや』『しかられて』)が発売されています。『夕やけ小やけ』はこの童謡舞踊フィルムの第一弾に当たるものです。

1番・2番ともに横一列の並びで始まり3名ずつのユニットに分かれていきます。足の踏み出し方、手先の形や甲の向き、首の傾げ方、袖の使い方に指示が出されていて、3名に分かれてからはしゃがんだ者と立った者で三角の構図のフォーメーションを展開。無声のフィルムのため音楽との対応が分かりにくいものの、動作の一部には歌詞を再現しようとした表現(「お手々つないで」「小鳥が夢を見る」)を見ることができます。

「童謡舞踊 雀踊り」 『金の星』1925年5月号

1920年代は童話・童謡の流行が本格化した時期でもありました。児童誌『金の星』1925年5月号に掲載された「雀踊り」の振付けを見ると『夕やけ小やけ』と同質の発想が含まれているのが分かります。

また同時期には童謡を児童教育にどう活用していくかの議論が活発になっていました。

動作のついた童謡民謡が、初歩の音樂教育の上に極めて重大な使命をもたらすのである。

『詩と音楽と舞踊』
小林愛雄(1924年、京文社、音楽叢書第4編)

林きむ子氏の童謡舞踊についての所説が就中参考にならうと思ひますから引用することに致しました。
『舞踊の効果をあらまし二つに分けて見ますと、第一は舞踊の「形」に及ぼす効果でございます。舞踊を致しますと、筋肉が柔らかになり、動作が靜かになりまして、起居動作に一つの自然的な美しさが現はれてまゐります。第二に舞踊が人間の精神に及ぼす影響でありまして、これは身體的方面よりもつと深い關係があるやうに思いひます。[…]』

『童謡と童心芸術』
野口雨情(1925年、 同文館)

1927年に創刊された雑誌『音樂界』では西洋の音楽教育論の影響を受けつつ、それを日本の教育環境に適合させていく理論構築の試みが見られます。同誌に「童謡の振付につきて」(1928年6月号掲載)などの論考を寄稿していたのが日本童謡表情会の主幹・杉山忠平氏でした。

伴野版『夕やけ小やけ』はこういった流れを受け、児童の情操教育、立ち居振舞いの美しさを学ぶ場としての「童謡舞踊」の実践例を扱った作品として発売されています。

1930年代初頭 – 9.5mm『 空のおぢさん 太平洋一番乗り 』 (宮下万三・作画) 伴野商店9.5ミリプリント

「伴野商店」より

Taiheiyo Ichiban-nori (The First Flight Across The Pacific Ocean)
Early 1930s Banno Co. 9.5mm Print

三太郎と呼ばれる「おぢさん」飛行士が大歓声に送られながら日本を出発、千島経由で太平洋の単独無着陸横断飛行に挑戦。途上、霜や怪獣、猟銃(迫撃砲?)を手にした白熊に襲われボロボロになりながら目的地シアトルに辿りつき歓迎を受ける様子を描いたアニメ作品。

本作品については島根県飯南町の「吉岡長太郎コレクション」(PDF)、神戸映画資料館にそれぞれフィルムの存在が確認されています。後者の「古典アニーメーションフィルムリスト」(暫定版・PDF)によると、同館所蔵分は作画者・製作年は不詳となっていました。

今回紹介するのは伴野商店版。オリジナルの20メートル用ケースから外され『夕やけ小やけ』等と共に80メートル用リールに再マウントされていたものです。作画クレジットに宮下万三氏の名を明記。同氏は政岡憲三氏の人脈に位置するアニメーターで、政岡映画製作所(1932年設立、改称を経て1935年に解散)や日本動画研究所(1939年設立)の作画で知られた人物です。

主人公が横方向に進んでいく発想、途中クルクル回る表現は以前に紹介した切紙細工アニメ『西遊記 孫悟空物語』(1926年、大藤信郎)と重なってきます。おぢさんの一挙一動や短パンを履いている白熊に愛嬌と抜け感があり、横スクロール型ゲーム風の感覚と相まって今見ても十分に面白いと思える作品でした。

手持ちの1929年版の9.5ミリフィルムカタログには未掲載、32年度版には伴野商店の作品番号398番として掲載されているのを確認。1930年頃に制作され31~32年に市販された一本と思われます。

1931 – 「映畫界エロ双紙」 小倉浩一郎(『デカメロン 獵奇漫談號』 昭和6年9月号収録、風俗資料刊行会)

風説と流言、妄言の戦前邦画史

Titillating Stories About Film Stars by Ogura Koichiro
in Decameron Magazine 1931 September Issue

今それが本當にあつた事か、單なるゴシツプに過ぎないのか、事の眞否は保證の限りではないが、随分華やかに、エロを極めた女優秘話 – 映畫界の常識に迄、知られすぎた話の數々ではあるが、思ひ當るまゝ書き列べて見よう。

『デカメロン』は1931年(昭和6年)に創刊された軟派系のエログロ雑誌です。売春、性風俗、薬物禍、猟奇犯罪、官能小説、春画など当時表立って扱うことが憚られていた題材の論考や随筆を収めています。

同誌の昭和6年9月号に「映画界エロ双紙」と題された一文が掲載されていました。書いたのは戦後に映画プロデューサー(1952年『魔像』他)として名を挙げる小倉浩一郎氏。7ページに渡って映画界のゴシップ事情を紹介したもので、同じ内容が『世界映画風俗史』(昭和6年、風俗資料刊行会)にも再録されています。

「日活の峰吟子が一寸氣が變になつた。頭の調子が狂つて來た–そらツ、腦梅毒が出たんだと云うゴシツプが先程、映画界をにぎあわせた。まさか、それ程までヒドイ彼女でもあるまいに、無茶なことを云つたものだ」

「何にしても、原駒子の獵色日記の華やかさ-「大衆双紙」だつたと思う、西條照太郎主催したインチキ雑誌の餘與記事中に、中野英治が歓喜したなんて事が書かれていた」

「神田にはれつきとした細君があるんだから勝てない。その爲にか、最近彼女 [濱口富士子] カルモチンを飲んで自殺したなんて、およそ與太ツぱちなゴシツプが飛んだ」

某男優や監督と某女優が実は…のありがちなゴシップに留まらず、性病、不倫、暴力沙汰、自殺未遂、撮影時のハプニングを列挙。さすがに極端なものは「無茶なこと」「インチキ雑誌の餘與記事」「與太ツぱちなゴシツプ」と注意書きが付されています。

「小笠原明峰は、自分のプロダクシヨンにゐた頃の彼女 [鈴木澄子] が、純情なる助監督を、夜の暗い路を歩き乍ら、誘惑するところを、「映畫時代」に書いていた」

「その他計り知らざる女性の彼 [鈴木傳明] の前に總てを投げ出した者、幾人、幾十人あるか、はかり知れないくらひだと、彼の周圍の一雑誌記者は語つてゐた」

「衣笠淳子は貞之助の妹とかに當るんだそうな [原文ママ] が一見エロ好のみの風丰で、落語家柳家三龜松の大の賛美者で、東京迄追つて行つて數日!如何に惱ましき場面があつたかを思はせて、スタジオ街にポカーンとして歸つて來た等と赤新聞にスツパ抜かれていた」

「その告白記を京都日日新聞だつたかに連載した。それに依ると、「こんなにたゞれる樣な瞬間的欲情の生活はとうど私をお恥ずかしい病氣にさへしてしまひました」なんてことを大膽に書いてゐたもので、彼女 [浦辺粂子] びいきのフアンを歎かわしく思はせた」

一方で噂の出所が明記されているケースも多く、「どこからそんな情報を手に入れた」と気色ばむフアンを先回りし、保険をかけた書き方になっています。

「「大岡政談」の亂闘シーンで、轉げ廻つて捕り手相手に闘ふはずみに、とんで……い…………て、その珍品ヒルムが今でも大切にオクラになつてゐると、日活の人に聞いた事があつた」

読み進めていくと途中に一ヶ所、伏字にされている個所がありました。伏見直江さんの撮影時のエピソードを紹介した一節で、描写が露骨すぎたために編集部が自己検閲を行ったものと見られます。

スタッフや記者、自称「事情通」や時に俳優本人から情報が漏れだし誤情報、怪情報が相乱れて噂は増幅されていく。ゴシップのネットワークは戦前邦画界も例外ではありませんでした。口コミの時代の話をこれだけまとめてあるのは珍しく、一読すると当時の映画界に対する認識が変わりそうです。

◇◇◇

「映畫界エロ双紙」が面白かったため、同稿を再録した『世界映画風俗史』をデジタル閲覧してきました。

接吻で思ひ出すのは或る雑談會で阪妻プロにゐた西條香代子が、誰だつたかの間に「妾秋田伸一さんとのラブシーンの撮影でキッスするところを撮りましたけれどカットされましたわ」と云つた事で日本映畫にも接吻はある事が證明されたのである。

第四章「日本映畫とその特殊なる作例」
『世界映画風俗史』、小倉浩一郎、風俗資料刊行会、1931年

西條香代子さんは『湖』(1927年4月公開)、『夜の怪紳士』(1927年8月公開)の2作で秋田伸一氏と共演。

邦画史上初のキスシーン登場は戦後1946年の『はたちの青春』(佐々木康監督)とされていますが、公開されなかっただけでその20年前に撮影はされていたという証言です。当時阪妻プロは米ユニバーサル社と連携しハリウッド進出を目論んでいて、国内の倫理規定を越えた試みにも挑戦していたと見ることができます。

他にも論考の切り口に興味深いものが多く、無声映画時代の検閲(第五章第一節「檢閲と切除場面」)と戦前期のポルノ映画(第五章第二節「性的映畫」)を扱った章段は読みごたえがありました。

小型映畫のエロテイクを思ふと、この簡単な、重寶な、しかも大衆的な趣味が普遍化された事から、エロテイスト達は、十六ミリのカメラを怪し気な事に利用惡用し、娼婦藝妓を説きふせ、モデル女を用ひ、或は獵奇街のあちこちに瞬間偶然のエロの曝露を求めて歩き、これ等をこつそり現像して、白幕の再現に一人樂しんだり、同好の士相寄つて鑑賞したりやつてゐるとか聞く。

そしてまた、初めに書いたのぞき式のエロ小品映畫を最近になつて専問に制作發買してゐる小型フイルム社が出來て、相當成績をあげてゐる […]。

第五章第二節「性的映畫」
前掲書

以前に投稿した「仏トリブレ社と1920年代の文芸ソフトコア・ポルノ」と重なる一節。「のぞき式のエロ小品映畫を最近になつて専問に制作發買してゐる小型フイルム社」はおそらくトリブレ社を指しています。昨年、同社の9.5ミリポルノ動画がヤフオクで売りに出されているのを見かけたのですが、情報、フィルム共にリアルタイムで日本に伝わっていたと分かります。

1928 -「明暗二女優物語」 (水口菊夫、『劇と映画』 昭和3年12月号収録)

風説と流言、妄言の戦前邦画史

Bright or Dark : A Hidden Story of Two Actresses by Mizuguchi Kikuo
in Movie and Play Magazine 1928 December Issue

これは蒲田撮影所が未だ、蒲田村の眞中に建てられてから間もない頃のお話です。主要な役割を演ずる女優さんやそのお相手に廻った方の名は、便宜上假名とさせて戴きます。

山田と言ふのは、當時、映畫劇製作に就いては、映畫家に比肩するものもない大家でした。それは他の人には一寸見出せないキヤリアーがありましたゝめ、撮影所内部では可なりの権勢がありました。

この人が制作した映畫は、珍しいのと、米國風に綺麗な点で、當時、餘り映畫劇が好まれなかった日本映畫界で相當立派な成績を擧げてゐたのでした。

處がこの人は至って好色でした。[…] この人の超自由な戀愛生活は全く撮影所内外共に噂の中心となる位でした。

特にこの頃蒲田撮影所の人気女優と言へば、千島みつ子、環千歌子、吉田笑子、二村千枝子の四人でした。[…]

處がこの四大幹部女優の中吉田笑子は、當時某と云ふ偉い人が後ろについてゐるので遉にこれへは山田さんも手が出せなかつたのです。

それからもう一人二村千枝子さんは、芸の巧い割合に、地味でしたし、戀の對照とするには、まあ他の人よりは、多少外見上、遜色がありましたのでこれへも、山田さんは欲情の瞳を向けなかったのです。[…]

で先ず、みつ子を手中に入れる豫備政策として、みつ子を山田氏監督作品のスターに選びました。

その映畫は『勿忘草』と言ひます。當時の大作品で、記録的な大衆撮影までやつて、映畫界のセンセーシヨンを起こしました。でみつ子は、素晴らしい勢で賣出しました。

その次に『カバン』と言ふ喜劇を作りました。主役は筈見要太郎とみつ子と、一寸した役で環千歌子が出てゐました。これは山田さんに取つて遺憾千萬にも「上映不許可」となつたのです。

で第三回目に制つたのが『勞働者とその妻』と云ふ社會風刺映畫です。これもまたみつ子が主演しました。

この当時でせう。屹度山田さんがみつ子に或る要求をしたのは…。でも道心堅固だつたとでも言ふのでせうか、みつ子は山田さんに良い返事をしなかつたらしいのです。そうして、撮影所の送り迎へには、必ず母親がナフタリンとなつてついて來ました。[…]

それ以来みつ子は山田さんの映畫には一切役を振られませんでした。その代わりとして環千歌子が、引續いて出演しました。

『赤陽の山道』と言ふ映畫を遠い地方へロケシヨンして歸つて來てから、千歌子は或る病気のため一年近く映畫界を退きました。このお話はこれでお終ひですが、このお話から観ると、この兩女優には、明暗兩相を意味する何かにあらうと思ひます。

◇◇◇

これは蒲田撮影所が未だ、蒲田村の眞中に建てられてから間もない頃のお話です。主要な役割を演ずる女優さんやそのお相手に廻った方の名は、実名とさせて戴きます。

[ヘンリー]小谷と言ふのは、當時、映畫劇製作に就いては、映畫家に比肩するものもない大家でした。それは他の人には一寸見出せないキヤリアーがありましたゝめ、撮影所内部では可なりの権勢がありました。

この人が制作した映畫は、珍しいのと、米國風に綺麗な点で、當時、餘り映畫劇が好まれなかった日本映畫界で相當立派な成績を擧げてゐたのでした。

處がこの人は至って好色でした。[…] この人の超自由な戀愛生活は全く撮影所内外共に噂の中心となる位でした。

特にこの頃蒲田撮影所の人気女優と言へば、栗島すみ子英百合子五月信子川田芳子の四人でした。[…]

處がこの四大幹部女優の中五月信子は、當時某と云ふ偉い人が後ろについてゐるので遉にこれへは小谷さんも手が出せなかつたのです。

それからもう一人川田芳子さんは、芸の巧い割合に、地味でしたし、戀の對照とするには、まあ他の人よりは、多少外見上、遜色がありましたのでこれへも、小谷さんは欲情の瞳を向けなかったのです。[…]

で先ず、[栗島]すみ子を手中に入れる豫備政策として、すみ子小谷氏監督作品のスターに選びました。

その映畫は『虞美人草』(1921年4月)と言ひます。當時の大作品で、記録的な大衆撮影までやつて、映畫界のセンセーシヨンを起こしました。ですみ子は、素晴らしい勢で賣出しました。

その次に『トランク』(1921年製作、上映禁止)と言ふ喜劇を作りました。主役は勝見庸太郎すみ子と、一寸した役で英百合子が出てゐました。これは小谷さんに取つて遺憾千萬にも「上映不許可」となつたのです。

で第三回目に制つたのが『電工と其妻』(1921年製作、上映禁止)と云ふ社會風刺映畫です。これもまたすみ子が主演しました。

この当時でせう。屹度小谷さんがすみ子に或る要求をしたのは…。でも道心堅固だつたとでも言ふのでせうか、すみ子小谷さんに良い返事をしなかつたらしいのです。そうして、撮影所の送り迎へには、必ず母親がナフタリンとなつてついて來ました。[…]

それ以来すみ子小谷さんの映畫には一切役を振られませんでした。その代わりとして英百合子が、引續いて出演しました。

『闇の路』と言ふ映畫を遠い地方へロケシヨンして歸つて來てから、百合子は或る病気のため一年近く映畫界を退きました。このお話はこれでお終ひですが、このお話から観ると、この兩女優には、明暗兩相を意味する何かにあらうと思ひます。

1928年末の「劇と映画」誌に掲載された1頁の読み物で、邦画界初期のとある出来事を実名を伏せて暴露したもの。読む人が読めば誰の話かすぐ分かる書き方になっています。

栗島すみ子さんは『虞美人草』で小谷作品に初出演、その後『トランク』と『電工と其妻』で主演を務めるも後者を最後に同監督作品から離れています。英百合子さんは『トランク』での助演後、『電工と其妻』の次作となる『夕陽の村』で栗島すみ子と入れ替わるように小谷作品初主演、続く『闇の路』でもヒロインを務めています。確かに出演記録データとの整合性は取れています。

また英百合子さんは『闇の路』公開から程なく半年ほど映画出演を控えています(同時期にヘンリー小谷氏は松竹を退社)。「或る病気」の表現は、表沙汰にできない出来事が進行していたと匂わせる含みのある言い回しです。

1927 – 発禁本 『スター 秘話戀の文がら』(池田溪水、成行社、昭和2年)

風説と流言、妄言の戦前邦画史

Film Stars’ Secret Love Letters by Ikeda Keisui
(Seiko-Sha, 1927)

国立国会図書館の「参考書誌研究」第77号(2016年3月発行)に同館の所蔵している発禁図書のリストが掲載されています(「国立国会図書館所蔵『発禁図書函号目録』-安寧ノ部・風俗ノ部-、 大塚奈奈絵」)。

戦前、同館がまだ帝国図書館と呼ばれていた時代に「万一の際の用に供すべき」ため保管していたものだそうです。マルクス主義・共産主義の礼賛や思想誘導を含んだり過度な国粋主義を標榜する書籍「安寧秩序紊乱」と露骨な性描写を含む書籍「風俗壊乱」の二系統に大別され、前者は1080冊、後者は359冊に上っています。

風俗壊乱「禁風」として指定された359冊には映画関連書籍が2冊含まれていました。

  ・内務省凾号:風-125 『スター 秘話戀の文がら』(池田溪水、成行社)昭和2年(1927年)
  ・内務省凾号:風-515 『キネマ女優猟奇実話』(森蒼太郎、ヒラバヤシ書店)昭和9年(1934年)

発禁図書の多くは戦後も「閲覧禁止のまま」別管理されていたそうですが現在はデジタル版の閲覧が可能。今回このうちの『スター 秘話戀の文がら』に目を通してみました。

◇◇◇

同書は当時の映画俳優と愛好家たちのやりとりに焦点を当てた書物、内容は以下の三つに大別できます。

  (1) 編者・池田溪水氏の求めに応じて男女優がフアンレターについて私見やエピソードを述べた文章
  (2) 俳優たちが受け取ったフアンレター実例
  (3) 俳優とフアンの間のトラブルや事件を実話仕立てで記したもの

(1)で私見を述べていたのは千草香子、徳川良子、尾上紋十郎、渡邊篤など。

で、現在のフアンを妾しが赤裸々に解剖しますと左の四種位になつてまゐります。

(一) 活動フアンとして眞面目に御批評御聲援下さる方。
(二) 御後援下さる反面に異性に對する慾望を目的とする方(一種の好奇心?)
(三) 後援云々を表面の武器として内面は露骨に毒牙を磨いて慾望を第一の目的とする方
(四) 至純なる戀に悶へての餘り赤き心を飾り氣なく告白する方 […]

で一々數多きことで御座いますから、その必要に迫るものみに一々御返事を差し上げて居ります。

「感想」
帝キネ撮影所 千草香子

フアンの皆樣から來る手紙は毎月四五十通、自宅に、或は撮影所へ参ります。けれどその中の大半、いゝえ九分位までがブロマイドを下さい – そればかりかブロマイドにサインをして御送り下さいなぞと言ふ甚だ手前勝手な蟲の好いもので、後の一分はそれも大部分が俳優志願とか、或は飛んでも無い、それは赤面する樣な脱線した禮讃とは、何とも情けない事ではありませんか。

「フアンの皆樣へ」
日活撮影所 徳川良子

熱烈なフアンとのやりとりがはらんでいる危険性は俳優も重々承知しており、自衛とリスクマネージメントを怠らなかった様子が伝わってきます。

(2)は手紙を書いた当人の許可を得ないまま転載したと思われるもので、他人の目に触れることを前提としてない、熱に浮かされた赤裸々な描写が多く含まれています。

お姉さま、お願ひです。僕を弟にして下さい。そして、一生おそばへをいて下さい。

「美少年より姐御へ – 憧憬の玉木悦子姉様へ」
東京山手にて ゆきを

手先が震へてます。胸には悲みの泪が溢れてゐます。何の言葉を口にしてお兄樣の前に跪けばいゝのでせう黙つて泪をながして跪くあたしの心は語らずとも – 書かずともお兄樣は知つてゐて下さいますでせう。

「なすな戀 – 尾上紋十郎兄樣へ」
大阪 京子

スツキリとした顏の輪廊……妾の胸に深く刻み込まれた、貴郎のみすがた、貴郎の魂が、妾をシツカリと抱いて呉れます、妾は何と言ふ惱ましくも果敢ない女でせう。

「かきおくる – 林長二郎さまへ」
港の街 三笠京子

貴女は性に目ざめて居ますか、そしたらこの次の手紙で面白いことを教えます。

「投げられた微笑 – 愛する若草信子の君へ」
神戸 濱千鳥

「玉木悦子孃は、この熱烈濃淳なるラブレターをよんで微苦笑をつゞけてました」の後日談の通り、恋心をこじらせた類のラブレターが紹介されている一方、性的妄想を垂れ流したセクハラまがいの暴言も散見されます。

(3)では俳優とフアンが「繋がった」例が幾つか挙げられていきます。

乙女の懐中深く秘められた一葉の寫眞、死す共放さじと一心に肌身に抱いてゐた其の謎の寫眞、それは誰のであつたらうか?意外!!それは帝キネの花形明石綠郎のであつた。

「水藻に咲く花 – 明石綠郎をめぐる悲しい戀の物語」

美形男優に恋い焦がれ肉体関係まで持ったものの、所詮は遊び相手に過ぎずやがて邪険に扱われ、悲しみのあまり入水自殺した二人の芸妓の話が語られています。ゴシップや憶測を実話仕立てにしたものでフィクションの要素が入り混じり(1)(2)とは質を異にしています。

現在、国立国会図書館には『スター 秘話戀の文がら』が3部保管されています(書誌ID:028046076、028046077、028046078)。一冊(028046077)は内務省検閲の際に実使用されたサンプルで見返しには「風俗禁止」の朱印、右上に警保局長、図書課長、事務官の個人印、下半分に3人の担当者による手書きの所見が残されています。

疑問ナルモ九一-九四頁ノ記述ノ如キハ少々モ宜シカラザルベシ

善良ナル思想誘導ノ趣旨見ラレテ大体禁止 […] ランモ、 九一-九四頁ノ如キハ風俗壊乱ノ理由ニ依リ禁止セラ得ベキモノナリ

何處と云ふて捉へどころなきも全篇歯の浮くやうな映画俳優への恋文風は女優が誘惑される場面等を一括せるやうにして、此種の読者を考慮するとき甚だ寒心に堪へざる種類の本と認められ、却つて不良少年などの好奇心を助長せずやと懸念さゝに就き断固禁ぜらる哉

ある書物が禁書となるまでの過程と思考がこの1ページに凝縮されています。昭和2年(1927年)に何が問題とされたのか、何を公にしてはいけなかったのか、その結果現在何が無かったことにされ、見えなくなっているのか考えていく上で示唆に富んだ資料となっています。

1910年後半 – 尾上松之助 『今戸大八』『平井権八』 幻灯機用種板 4枚

[※] 2022年2月、写真を撮り直して再投稿しました。

フィルムを基にしたこの種のスライドについては神戸大学の福島可奈子氏が「大正期から昭和初期における齣フィルムの蒐集と文化」(『映像学』2018年99巻)で言及されており、1917年に活動写真興行取締規則が施行され映画館から締め出された子供をメインターゲットに発売された、との指摘がなされています。

こちらは『今戸大八』(1917年9月公開)『平井権八』(1916年5月公開)の一場面をあしらったもの。保存状況が悪く彩色の大半が流れてしまっているものの赤や緑、水色や黄土色が一部残っています。

1930年頃のガラス乾板14枚 (八雲理恵子、嵐寛寿郎、『東への道』ほか)

1920s – Early 1930s Glass Negatives

戦前期に残されたガラス乾板14点。パスポートより一回り小型の手札判(10.8 × 8.25cm)が6枚と、その半分のサイズの名刺判(8.25 × 5.5cm)8枚の組みあわせです。

古い映画に関係があるのではないか、漠然とした情報を元に入手したもので届いた時点では何が写っているのか全く分かっていませんでした。実物を確認してみたところ期待を上回る写真が含まれていた、そんなお話になります。

◇◇◇

まずは被写体が人物ではない手札判から。

枝葉と水辺を捉えた他愛ない風景写真に見え、最初は特に気にしていませんでした。白黒反転させた画像の細部にふと目が留まります。通りを歩いている人々の先、建物に看板がかかっています。拡大してみると:

「東への道」の右文字。その下には流氷に乗って流されているリリアン・ギッシュの姿。グリフィス監督による同名作の看板です。映画館を写した一枚のようです。川辺、あるいは小さな池のほとりの映画館…?

浅草公園の瓢箪池でした。

西側の通りに沿って万世館や世界館、三友館などの活動写真館が立ち並んでいた界隈です。池の北東部、やや窪んだ形の撮影ポイントから南西に向けカメラを構えると、浮島への通路の欄干が画面中央に収まってこの構図になるのかな、と。「東への道」の看板の左に和風の家屋があって、さらにその左隣、枝葉に隠れて白い壁の洋風建築が立っているので、万世館から食事処を挟んで世界館の一部が写っている感じでしょうか。

◇◇◇

続いてもう1枚、今度は縦長の手札判。やや面長で目鼻立ちのくっきりした和服姿の女性です。

八雲理恵子(恵美子)さんでした。1920年代末~30年頃の雑誌や俳優名鑑に使われていそうなポートレート写真。趣味の個人撮影ではなく職業カメラマンの手によるものです。

◇◇◇

もう一枚、小さな名刺判には武士姿の青年が写っていました。白黒反転させると…

まさかの嵐寛寿郎が登場。撮影現場での一枚でしょうか。鞍馬天狗や右門、渡世人や後年の明治天皇のイメージが強く、こういったきっちりした武士姿の役どころは珍しい気がします。

撮影時期が特定できないか、と家紋に注目してみました。胸元に菱形を3つ重ねた図案。これは清和源氏系の小笠原家や武田家が使用した「中陰三階菱紋」だそうです。

出演歴をたどり直してみると1932年に『小笠原壱岐守』(山中貞雄監督)に主演。早期に上映が打ち切りとなり短い断片しか現存していない一作です。たまたま撮影用に渡された衣装だった可能性も否定できないものの、当時、寛プロの撮影現場で撮られた一枚とも考えられます。

◇◇◇

次の2枚は難易度が高く特定には至りませんでした。

焼きゴテで細かく波立たせた短髪に和装をあわせるのは1927~29年頃に流行したスタイルです。まつげやアイラインを強調し目元を強めに見せていて、唇をやや左右に短く、下唇を厚めにし口が小さく見える紅の差し方をしています。

これらは昭和初頭の量産型女子の特徴でもあって、似た化粧法をしていた女優が当時大勢いました。それでも頬の曲線、鼻の形など化粧では大きく変えられない部分もある訳です。写真を見て最初にパッと思いついたのは滝花久子さんでした。

手持ちの絵葉書で、ややあどけなさの残るナチュラルメイク寄りの一枚。ネガの雰囲気とはだいぶ変わりますが顔の輪郭や鼻の形に面影があります。

ただ厄介なことに同じ女優と思われる乾板ネガがもう1枚あるのです。

ほつれ具合も含めて髪型は同じですし、化粧の特徴も一致。しかしこちらはやや顎をひいた姿勢、目つきも鋭い感じです。

滝花久子さんは『東京行進曲』(1929年)に出演しており、女給として登場した場面に顎を引いた一瞬の構図が見られます。左右反転しガラス乾板の画像と重ねてみました。

個人予想としては滝花久子さんですが、先に触れたようにこの時期には多くの女優(龍田静枝、柏美枝、伏見直江など)が同種の化粧+髪型を披露しているためあまりに紛れが多く「可能性あり」に留めておきます。

◇◇◇

ガラス乾板のほとんどは専用のパラフィン紙に包まれていました。その中に1枚、松竹の社名が記載された袋が含まれていました。

また今回紹介した5点の他にもプライベート撮影と思しき子供、知人の写真が一つの箱に納められています。関東拠点で写真を生業とし映画撮影所と接点を持っていたカメラマンが手元に残した自作のネガ、と見るのが妥当なのかな、と。

ガラス乾板にはフィルムと違った古風な質感があって今回はその面白さを再発見する機会になりました。いつか自力で現像~引き伸ばしできたら良いですね。

1913 – 『さらば青春』(伊イタラ社、ニーノ・オクシリア監督)

Addio giovinezza! (1913, Itala Film, dir/Nino Oxilia)
1958 Japanese Postcard

・1913年版『さらば青春』 イタラ映画社、ニーノ・オクシリア監督、リディア・クアランタ主演
・1918年版『さらば青春』 イタラ映画社、アウグスト・ジェニーナ監督、マリア・ヤコビニ主演
・1927年版『さらば青春』 ジェニーナ映画社、アウグスト・ジェニーナ監督、カルメン・ボニ主演


『さらば青春』 は無声映画時代に3度映画化されています。アウグスト・ジェニーナ監督による1918年版と1927年版は以前に紹介したDVDセット修復版を見ることができるようになりました。

1913年4月30日付「ヴィータ・シネマトグラフィカ」誌広告

第1回目の映像化となる1913年版は原作舞台劇の共作者でもあるニーノ・オクシリア自身が監督を手掛けています。ヒロインのドリナにリディア・クアランタ、その恋敵となるエレナにはリディアの実妹のレティツィア・クアランタが扮しています。

今から六七年以前にも日活の手で輸入され、葵館や、電氣館で映寫され、その頃の私達を泣かしめた『さらば靑春』あの伊太利イタラ會社の傑作映畫です。[…]

以前の『さらば靑春』は、イタラ會社で一九一二年に作られた三巻の映畫でした。さうして出演俳優としては、その頃イタラ會社の主腦俳優として知られて居つた人々ばかりでした。卽ちドリナにリヂア・クオランタ孃、エレナにドラ・バルダネロ孃、マリオにアメリゴ・マンツイニ氏、レオンにアレキサンドル・ベルナール氏が扮しておりました。

◆感想◆あゝさらば さらば靑春よ!
(若樹華影、活動倶楽部、1921年12月通巻19号)

同作は日本でも公開されており、1921年「活動倶楽部」誌では若樹華影氏が1918年版の公開に触れてオリジナル版の思い出に触れていました。また『映畫大觀』収録の「映畫十年」で石上敏雄氏が大正2年の優秀作の一つに三友館で上映された同作の名を挙げています。

東都幻影会による絵葉書と、DVDセットに収録された1918年版の場面を対応させてみました。ドリナとマリオが部屋にいる場面を比べるとオリジナル版は室内装飾や家具、衣装に1900年代(日本では明治末期)の雅びな感覚が強く残っているのが分かります。

ラストシーン、鉄橋に立つドリナを捉えた場面は服装に違いがあるものの、ヒロインの立ち位置を含め1918年版が1913年版に出来るかぎり寄せています。角度や高さをつけた撮影が可能だったにも関わらず同一構図を選んだ、ぶつけてきた辺りにオリジナル版への敬意、そして自信が伝わってきます。

第一次大戦前の典雅な、やや古めかしい表現が戦後のモダンで地に足の着いた質感にアップデートされていく。これ、旧版に思い入れのある人が新版を見ていてこの橋の場面まできたらブワッと思いが込みあげてくるのでしょうね。リアルタイムで経験してみたかったです。

[原題]
Addio giovinezza!

[公開]
1913年6月

[IMDb]
Addio giovinezza!

[Movie Walker]

1913 – 『海の彼方へ』(原題『故郷と異郷』、独コンチネンタル社、ヨーエ・マイ監督)

Heimat und Fremde (1913, Continental, dir/Joe May)
1958 Japanese Postcard

親子の情を極度に切實に表はした作でジョー、マイ氏の藝術的活動寫眞作品とも云ふべきもので且又出演者は獨逸有數の名優殊にイプセン劇に名あるエマヌエル、ライヒヤー氏及びその實子エルンスト、ライヒヤー氏及び獨逸座の名優ヨハンナ、テルワイン孃の三人が主要な役をやつている。

『故郷と異郷』
(森田生、キネマ・レコード誌、1915年1月通巻19号)

1913年8月27日付キネマトグラフ誌第348号広告

大正四年は全く鷗州映畫全盛時代といつてよい。活動探偵劇流行の前年とは少しく傾向を異にして四年には主として所謂文藝作品が多く公開せられた。

「映畫十年」
(伊藤敏雄、『映畫大觀』、1924年、春草堂)

別投稿で触れたように、大正3年(1914年)の日本ではドイツ探偵劇が大きな流行となりました。ドイツ本国では第一次大戦期を通じてこの傾向が続き多くの新シリーズが公開されていったのに対し、日本では大戦勃発で輸入の中断があって極初期のウェッブス探偵物(エルンスト・ライヒャー主演)とブラウン探偵(ルートヴィヒ・トラウトマン主演)の二つが愛好家の記憶に残る形となりました。

一方で伊藤敏雄氏が言及しているような趣向の変化があり、愛好家の興味が探偵劇から文芸物へと移っていく中でエルンスト・ライヒャーの出演している親子人情物『故郷と異郷』に注目が集まります。

放蕩息子ジャック(エルンスト・ライヒャー)が賭博で残した借金を穴埋めするため全財産を使い果たし、息子と絶縁した銀行家(エマヌエル・ライヒャー)が米国へと渡ります。全てを失ったジャックは父を追って渡米、今は農場で義理の娘(ヨハンナ・テルウィン)と暮らしている父親に許しを請う…という物語を描いたものです。

素晴らしい性格俳優エマヌエル・ライヒャーは深く心を痛める父親役を途方もない力量で演じている。舞台同様に銀幕上でも力強さは健在、性格を描き出す鋭い力でその真価を発揮している。傍らには息子のエルンスト・ライヒャーの姿。フランクフルトのノイエン劇場に所属し、既に映画俳優として実績を積んだ彼が心を改めていく息子の役を演じている。

1913年8月23日付 リヒトビルト・ビューネ誌第34号

Emanuel Richter, der hervorragende Charakterdarsteller, spielt die Rolle des schwergeprüften Vaters mit enormer Kraft. Er wirkt auf der Leinwand ebenso stark, wie auf der Bühne, die ganze Schärfe seiner Charakterisierungskunst kommt voll zur Geltung. Neben ihm ist sein Sohn Ernst Richter vom Neuen Theater in Frankfurt a. M., den wir als Filmschauspieler bereits kennen, Träger des reumütigen Sohnes.

Lichtbild-Bühne, Nr. 34, 23.8.1913

同作はエルンスト・ライヒャー初期作の一つで本国ではむしろ舞台劇俳優として名のある父親のエマヌエル・ライヒャーの力量が発揮された作品として評価を受けていました。日本ではこの後イタリア作品『クオ・ヴァディス』のような絢爛な大作がヒット、また同年に『名金』『マスターピース』の米作品が公開されたことで本格的な連続活劇ブームを迎えます。

[原題]
Heimat und Fremde

[公開]
1913年8月

[IMDb]
Heimat und Fremde

[Movie Walker]

1912 – 『セベラ』(原題『死の指輪』、ゴーモン社、ルイ・フイヤード監督)

L’Anneau fatal (aka Vengeance of Egypt, 1912, Gaumont, dir/Louis Feuillade) 1958 Japanese Postcard

『恐ろしげな彫物ぢや』と云ふ時、士卒は其蓋を取つた。中の木乃伊は、服装によつて、すぐ女と知れたが、ナポレオンは其木乃伊の顔を見ると共に、
『あ!』と小さく叫んで、思わはず幕僚を省みた。そして、
『恐ろしい顔をして居るわい』と又更に気味悪げに見直して、
『む、これは、何か悪病で死んだと見える。皮膚に斑點があるわい……而も、生前は迚々美人であつたらしい。美しい目鼻立ちぢや』
『したが、怨めしさうな顔に厶りますな』と云つたのは、幕僚の一人でベラード中尉である。ナポレオンはうなづいて、
『む、怨めしさうな顔ぢや。此女の經歴には何か大きな悲劇があるように思はれる』
と斯く云はれてゐる木乃伊こそ、三千年前ラメス王家にあつた悲劇の主人公セベラ姫であらうとは、誰あつて一人知るものはない。

『王女セベラ : 指輪の怪異』
(野中緑郎、万字堂書店/杉本梁江堂、1913年)

仏ゴーモン社による三幕物の奇譚『セベラ』は1912年9月に公開されています。古代エジプトで呪いにより非業の死を遂げたセベラ姫のミイラから指輪が奪われ、その持ち主たちに災厄をもたらしていく…という物語です。

仏公開時告知。「シネ・ジュルナル(Ciné-Journal)」誌 1912年9月7日付第211号

米公開時広告。「ムービング・ピクチャー・ニュース(Moving Picture News)」 1912年10月12日付第15号

独ゴーモン社「キネマ週報(Kinematographische Wochenschau)」 1912年第34号

フィルムが現存していないため一般的な知名度こそありませんが、ホラー映画、特に古代のミイラを扱った作品の歴史を遡っていった時に一つの転換点となったとされています。2019年に公刊された『銀幕のミイラたち』(バジル・グリン著)がその辺りを的確にまとめていました。

エジブトの遺物をめぐる喜劇群の後、1912年以降になるとより暗い調子の物語が続くようになり始めた。

1922年にツタンカーメンの墓が発見された頃には、墓所の発見を呪われた秘宝を手に入れた事で生じる呪いであるとか、因果応報に結びつける作品がすでに数作発表されていた。『エジプトの呪い/セベラ』(1912年ゴーモン社、仏)ではナポレオンのせいでエジプトのミイラが白日の下に晒され、指にしていたスカラベの指輪が下士官の一人によって盗まれてしまう。「一世紀に渡る災厄」が続いていく。指輪の持ち主たちは「疫病、絞殺者、毒薬、弾丸、飛行機遭難、自動車事故によって」次々と亡くなっていく。

『銀幕のミイラたち:怪奇映画における東洋趣味と怪物』
(バジル・グリン著、ブルームスベリー・アカデミック社、2019年)

Comedies about Egyptian artefacts began to be accompanied by darker tales from 1912 onwards […].

By the time Tutankhamun’s tomb was discovered in 1922, the cinema had already presented several tales equating the discovery of a tomb with curses and ancient retribution, mostly revolving aroud the dangers of possessing cursed treasure. In The Vengeance of Egypt (d.u., France, Gaumont, 1912), for exemple, Napoleon Bonaparte is responsible for an Egyptian Mummy being unearthed whose scarab ring gets stolen by one of his lieutenants. « A hundred years of disaster » follows as each eventual owner of the cursed ring dies ‘through agency of plague, the strangler, poison, bullet and the wrecked aeroplane and automobile’.

« The Mummy on Screen : Orientalism and Monstrosity in Horror Cinema »
Basil Glynn (Bloomsbury Academic, 2019)

ミイラが作中に登場してくる作品そのものは既に1908年頃からあったものの、ミイラに扮した何者かが棺に入っている設定の喜劇や、ミイラを見て古代のロマンスに想いを馳せる物語が大半でした。怪異や超常を含んだ「より暗いタッチの物語」が登場してきたのが1912年で、『セベラ』が先陣を切った位置づけになっています。

またこの作品はルイ・フイヤード監督の初期短編の一つでもあります。

『フイヤード』(フランシス・ラカサン、1966年)より左は『タリオンの罪』(1913年)、右は『顔無き男』(1919年)スチル

ある時期のフイヤード作品にはグロテスクが含まれています。上の写真はラカサンの『フイヤード』からで、見ている者の心をざわざわさせる感覚を上手くとらえています。

肌に残された死斑、ゴツゴツと骨ばった指先…『セベラ』でのミイラはフイヤードがエグみ、グロみを強調した最初期の例であり、また本作で自信をつけたことで後年の連続活劇にそういった要素を積極的に導入していった流れも浮かび上がってきます。怪奇映画史のみならずフイヤード監督の発展史において重要な1ピースなのです。

『王女セベラ : 指輪の怪異』(野中緑郎、万字堂書店/杉本梁江堂、1913年3月)

日本では1913年3月にノベリゼーション版『王女セベラ : 指輪の怪異』が公刊。冒頭にスチル写真があしらわれています。国立国会図書館が初版を所蔵しておりデジタル閲覧可能です。

[原題]
L’Anneau fatal

[公開]
1912年9月15日

[IMDb]
L’anneau fatal

[Movie Walker]